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私だってクソ野郎は許せない [セリフ]

クリント・イーストウッドの最新作を試写会で見る。
「グラン・トリノ」

描かれているのはアメリカ……のふりをした普遍的な「異文化集団の姿」なのだと思う。

朝鮮戦争で人を殺した主人公は東洋人を嫌っている。カトリックにも救済を見いだせず、自らの「アメリカらしさ」のアイデンティティとしてしがみつくように大切にしているモノが、ささやかな庭の芝生と1972年生のフォード・グラン・トリノ、および「手に職」の象徴である工具たち。そしてライフル銃。

しかし、その芝生の庭付きの家がある場所の隣にはベトナム戦争で国を追い出された東洋人が住み、対立する黒人と東洋人のチンピラが蔓延する地域に変わり果てている。

皮肉なのは、主人公がポーランド系移民であること。白人である仲間たちも、イタリア系、アイルランド系……WASPではない。つまり、自分が守っているささやかな幸せも、かつては黒人と東洋系移民たちがいま直面している抗争を経てえたモノだったに違いない事。

復讐の連鎖に、カソリックは救済になるのか?(表題は、神学校出の「童貞」神父がこの事件でリアルな「生と死」を悟った瞬間のセリフ) 命をかける場所と方法はどこにあるのか? そして老いと新しい世代への関わり方の問題。アメリカの「いま」をすべて凝縮したようなこの状況が、アメリカにおいてどの程度リアリティがあるのかよくわからない。だが、たとえ作り物めいていたとしても、何か普遍的な「規範の異なる異文化の人が共存する地域」の状況を描く事に成功している。だから見ているモノの心に響くのだと思う。

何よりストーリーの進め方の部分で、文化や世代の違いによるある種の「滑稽さ」を描いているために、重くなりすぎずに見続ける事ができる。コミュニティの抗争なんて、端から見れば「猿山のボス抗争」みたいなもんだからだ。さらに「これはそのまんま落語じゃん」というエピソードもあり、笑いだって普遍的なんだなぁなんて思えたりもする。そして何よりその「滑稽さ」を演じられるクリント・イーストウッドの魅力が満載だ。

最近そんなに沢山の映画を観ているわけではないので、比較はしづらいが、観て損はない映画であることは間違いないと思う。
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人生は、スカートの長さではないのです [本]

NHK【新日本美術館】中原淳一

毎年、スカートが長くなったり、短くなったり
そんなものを身に着ける新鮮さも
うれしいものです。
しかし、ちょっとした興味本位な思いつきや、
無責任に作り上げられた風潮で、
「そんなの古い」と片付けてしまえないものも
たくさんあるはずです。
「いつまでも古くならないもの」
それこそが、「もっとも新しい」ものだとは
いえないでしょうか。
人生は、スカートの長さではないのです。


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魚屋の勝っつぁんが好き [落語]

~春風亭昇太プロデュース下北沢演芸祭2009~
立川志らく独演会「新たな『芝浜』」@シアター711 

スズナリの隣に新設された劇場。100席程度だが、元映画館らしくシートは良さそう……最後尾の段差に座布団を敷いた席だったので、あくまで想像ですが。

開口一番はらく太さんの「転失気(てんしき)」。おなじみの「知ったかぶり」の咄。らく太さんは愛嬌があるので、もっともっと良くなるはず。

志らく師匠が登場し、前半は「質問コーナー」。意外に力が入ってしまい、時間もおす。僕が書いた「会場の感想」の話題から、和式便所のネタで笑いがおきて嬉しい。ただ、休憩がなかったので、後半の落語に心の準備がなかなかうまくできなかった。

(僕が)ふわふわした気持ちのママ「新たな『芝浜』」。以前に「志らくのピン」、「下丸子」でやったものをさらに進めたもの。師匠は以前から、おかみさん=貞女という盲目的な図式に「ちょっと違うんじゃない」という疑問を投げかけている。師匠なりの試行錯誤が「新たな」古典落語を“作り出そう”としている。

(以下ネタバレ)
おかみさんが嘘をつく理由が「魚屋をやめるって言うから」。「お酒飲んでも、暴れても、借金しても良いから、魚屋の勝っつぁんが好き」だからというもの。「好き」という言葉をあまり何回も前面に出されるとちょっと引いてしまうので、以前のように「あたしは魚屋の女房になったのよ」があるとフレーズ的には好みかも。

嘘を告白する理由が「やけ酒を飲んでくれると思ったから」。理屈的にはわかるけれど、今日はすんなり入ってはこなかった。何が違うんだろう。

ちなみに、勝が採譜を拾ってきた事が、夢になってしまう理由が、「勝こう」のイリュージョン(ギャグ)なところはおもしろかった。時間を間違えて起こしたおかみさんを、芝から長屋まで(ワンピースみたいに)手を伸ばして殴りたい、とか、お金を数えてたらタコとかイカとか貝になった(おかみさんがお金を数えるのに「ちゅーちゅーたこかいな」とやるから)とか、「そんな事考えてる方がおかしい、夢に違いない」と勝は思ってしまう。メタフィクション的というか、イリュージョンというか。前回(ピンの時)の「海水でうがいするわけない」よりは好み。

「ちょっとアタマで考えすぎ」と言う意見はあるだろう。でもこういう試行錯誤の上に、後の名作が生まれるのだと信じている。そしてその課程を見届けられることは、CDやカセットテープの音源にはない、ライブの幸せだろう。
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なめんな小僧 [落語]

立川志らく独演会〜テーマ:芝居〜@銀座ブロッサム中央会館

演目は師匠にしては珍しい新作落語『吉良の忠臣蔵』と、中入り後に『中村仲蔵』。どちらも芝居「忠臣蔵」に関わる話。

『吉良の忠臣蔵』はタイトル通り、吉良側から見た忠臣蔵。と言うと大げさだけど、世の中みんな偏ってない?って事で、浅野内匠頭の怒りがいかに理不尽だったか、そのお目付役だったはずの大石内蔵助が逆恨みがいかに滑稽なものであったかを描き出す、師匠らしい新作。こういう部分が、僕が師匠を敬愛する理由。それは誰よりも優れているからという理由(だけ)ではなく、自分のメンタリティにピッタリだから。僕も子どもの頃から『忠臣蔵』が好きになれず、その理由が、いくら何でも一方的な美談に踊らされすぎだろう、と思っていたからだ。

師匠も言うとおり、近年は吉良側に立った忠臣蔵解釈も多いようだが、これは、いかにも落語らしい「バカバカしさ」が楽しい。正論で戦うよりも落語らしく《笑い》で勝負する美学も大好きだ。ただ、個人的には浅野内匠頭の描き方が「今時の若者の逆ギレ」という「わかりやすい」笑いに傾いてしまっているように《見えてしまう》ことがちょっともったいない気がした。この咄はもっともっと成長していく気もするので、今後も楽しみにしたい。

変わって中入り後は『中村仲蔵』。古典落語を忠実に、そしてとても丁寧に演じていると言う印象だった。

仲蔵が出世していく「芝居の工夫」。たとえば見得を切る団十郎をのぞき込んでみたり、狐の面を被ってみたり、そうした工夫が金井三笑という立作者との確執を生んだり、と言った場面を丹念に描いていた。

その丹念さが《役者》中村仲蔵の芸に対する情熱を際だたせていく。「斧定九郎」(『忠臣蔵』五段目の登場人物)というを演じたときの工夫が《失敗した》から《死んでしまいたい》とまで言う仲蔵の役者魂と、それを止めるおかみさんの愛を、よりいっそう心に響く形にしているのだ。

今日の日記のタイトルの「なめるな小僧」は、市川團十郎が、自分の見せ場で、仲蔵が勝手な工夫で客の注目を奪ったあと、楽屋で「出過ぎたマネを」と謝る場面で言ったセリフ。「舞台の上じゃ師匠も弟子もない、舞台の上じゃ真剣勝負よ。肩の力ぁ抜いて命がけで戦うんだ」「その程度で驚くオレじゃあねぇ。俺を誰だと思ってるんだ。この團十郎を超えてみろ、オレを喰ってみろ」

伝統芸能だから、様式美を大事にしなければならない、が、新たに何かを作ってかなければ生き延びて生きない、伝統を守っていけない。

この團十郎の「なめるな小僧」と言ったときの志らく師匠には、はっきりと談志師匠が乗り移って見えました。そして先輩にねたまれようが、失敗しようが《良いと思った事はやってみる》という仲蔵の生き様に、志らく師匠の生き様が重なって見えました。だからこそ、(僕の前に座っていた)芝居好きの老夫婦が終演後に「最高っ」って言うほど、人の心に届いたのだと思います。

さらに、志らく師匠の思いがこもったセリフ。團十郎「あたしが残念なのは、仲蔵がどんな役者になるか、最期まで見届けられない事だ。順番だからね」。これは、きっと、志らく師匠から、談志師匠に対するメッセージだと思う。

「立川志らくを、見られるだけ見届けてください」。

志らく師匠の師匠愛に満ちた著書『雨ン中のらくだ』にも、そんな愛情が満ちあふれています。そして、そんな師弟愛がうらやましくて仕方ありません。


雨ン中の、らくだ


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よなよな [セリフ]

ホント、久しぶりの更新。

『春琴』@世田谷パブリックシアター(サイモン・マクバーニー演出)千秋楽結びの一番のセリフ。シーンによっては、春琴役の深津絵里に「夜な夜な」蹴り続けられるという、マゾっ気たっぷりの谷崎の世界らしいセリフ。

初演も観ていますが、更にパワーアップしてました。

演出がわかりやすくなっているせいか、ストレートに感動できました。終演後の拍手を見る限り、他のお客さんにとってもそうだったのだと思います。千秋楽だったと言う事を差し引いても、「いつまでも終わらない拍手」というのはこういうことを言うんだという感じで、みんな手を叩き続けていました。

子ども時代の春琴は、文楽のように人形を使って演じているのですが、「人形遣い」としての深津絵里の声は相変わらず絶品。その人形が徐々に成長していくシーンや、佐助との絡みは前回より遙かに官能的に仕上がっていました。実態のない、ふわふわした着物に顔を埋めていくシーンなどは、まさに魅入られているとしか思えない。

更に今回は、球体関節人形のような白い胴と手足を使って、「絡み」も表現していました。下半身がないのに、足だけが佐助にからみつくシーンの「エロさ」と言ったらもう! そのまま風に揺られる凧のように舞台奥にススッ、ススッと引いていくのですが、それに引っ張られていく佐助に男の弱さを見せられました。もちろん女の強さも。

リアリズム芝居がふたつほど続いていたところでの、この耽美的象徴の世界。あまりに美しく、実際にセックスシーンを演じるより遙かに「エロ」な舞台に、「これこれ、これが良いんだよ」と確信を持てました。やっぱり好きです、こういう方が。

サイモン・マクバーニーという演出家は、まあ日本という国を外から見ているせいかもしれませんが、日本的なものを舞台の上で具現化しています。文楽の要素あり、能の要素あり、そしてとても立体的に舞台を構成する。普段見ている演劇が、「映画的」にスクリーンの向こうで演じられている感じがしてきて、それらが二次元であるならば、サイモンの舞台は(『エレファント・バニッシュ』は殊更そうでしたが)演劇らしい三次元構成な気がしました。あるいは、他の舞台が三次元なら、四次元というか、もうひとつ軸が多い気がするのです。

役者の歩き方ひとつをとっても、決してリアルな演技ではありません。むしろ出演者が全員文楽人形のような、能の役者のような、幽玄の世界を全体で作り上げていました。「日常を描く」リアリズム芝居が流行っているのかどうか知りませんが、なんだか「私小説」的で、日本人には得意なのかもしれませんが、個人的にはそれは「舞台」ではあんまり観たくないな、と、改めて思いました。

それにしても、「演劇」が表現できる世界は広いなぁ。肉体パフォーマンスの要素や、音楽と声の「音」の要素、闇と火と照明の「明かり」の要素など、どれをとっても普段なかなか見る事ができない幅の広さを感じさせてくれました。
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