一富士二鷹ジョンレノン [本]
久しぶりに小説一気読み。
本当に巧みだなぁ、この人。
俳句で言う《二物衝撃》とか、
米光講座で言う《ジャンプ》みたいな事象が、
とても巧みに編み上げられていて、
細かい別々の写真をコラージュして、
離れて見ると全体で別の絵になっているっていう作品みたい。
(モナリザとかカンパリとかの奴ね)
ジャージやカマドウマやアルフォートやワープロやら熊手やら……
情景としては違和感がないし、
語り口もなめらかですらすら読めるけど、
よくよく考えるとその組み合わせはちょっと不思議って感じで
でもそれらの細部が浮かび上がらせる全体の《感情》は
ふと涙ぐんでしまうほど雄弁に語りかけてくる。
こんな文章が書けるようになりしたいなぁ。
……長嶋さんはブルボン小林名義で『ぐっとくる題名』という本も出しています。きっと言葉が生み出す感情とか情景という事を、いつも考えているだろうなあ、この人は。
人生は、スカートの長さではないのです [本]
毎年、スカートが長くなったり、短くなったり
そんなものを身に着ける新鮮さも
うれしいものです。
しかし、ちょっとした興味本位な思いつきや、
無責任に作り上げられた風潮で、
「そんなの古い」と片付けてしまえないものも
たくさんあるはずです。
「いつまでも古くならないもの」
それこそが、「もっとも新しい」ものだとは
いえないでしょうか。
人生は、スカートの長さではないのです。
今やっている冒険が、自分の実績となる。血肉となる。 [本]
「仕事を100倍楽しくするプロジェクト攻略本」(米光一成)
実際に、嫌々やっているプロジェクトが、次々険悪なムードになり、気になるひと言にぶつかった。
掲題の続き。
「……自分のスタイルとは違うけど「ひとまずこなして次こそは!」などと考えてやってはいけない。スポーツで変なクセがつくと、なかなか直すことができないのと同じだ。」
思えば、僕の人生は「ひとまずこなして次こそは」の連続だった気がする。今もしかり。
引用した章のタイトルは「自分の「勝利」を譲るな!」。
与えられる冒険=プロジェクトに自分の勝利条件を見いだしにくくなっている場合、やはり自分の勝利条件を満たしてくれる新たな冒険を求めて、自ら旅に出なければいけないのだろうか。
いい加減、そんな歳になった気がする。
寝言サイズの断末魔 [本]
松尾スズキの本のタイトルです。
この人のネーミングセンスってすばらしい。
「ぬるーい地獄の歩き方」
とか。掲題も、これも、微妙に七五になってるし。
「演技でいいから友達でいて」っていう、演劇人との対談集も、さすが。
たちまち鉄瓶に松虫の音起こさせ [本]
『五重塔』(幸田露伴/新潮CD・朗読日下武史)
美しい表現と言うことで、メモ代わりに。
こういう表現に出会うと、言葉の美しさを再確認できますね。それが他の言語との比較ということではなく。
実際に鉄瓶で湯を沸かして、その音を聞いたことなんて、ほとんどないのですし、しかもこの音は是非とも火鉢か何かの上でないといけないでしょうし、そんな体験はないのですが、でも懐かしく、自分が日本人であることを再認識させてくれる表現です。
朗読のCDで、繰り返し聞いているのですが、もっと、小説の朗読なんかを配信してほしいですね。これだけiPodなんかが流行っているわけですから。
遊戯三昧 [本]
「雨月物語」上田秋成 序
仏教用語らしい。遊戯は「ゆうぎ」とも、「ゆげ」とも読むらしい。
仏のように、自由な境地、というのが、仏教用語的な解釈らしい。いかに「遊ぶか」が「生き方」なのかもしれませんね。
以前の「遊びをせんとや生まれけむ」というのも、この言葉から生まれたものかもしれません。
科学は多数決ではないのです [本]
「バカの壁」養老孟司(新潮新書)
ともすれば安易に「科学的に証明されている」なんて口走ってますが、その証明を自分は理解しているでしょうか。「みんながそういっている」ということを言い訳にしていないでしょうか。
本当に理解できることだけ、本当に信じられるものだけを語りたいと、常々思っています。でもつい、上滑りした「コトバのためのコトバ」を無条件にはき出していたりします。だいたい、「常々思っています」ってあたりが、すでに滑ってますし。
だから何なんだ、といわれれば答えようもないのですが、せめてコトバにだけは誠実でありたいと思うのです。安易な「真実」や「事実」に拠らず、自分のコトバで語りたい。
もちろんコトバは、僕が発明するものではありませんから、誰かのコトバの流用です。でも、自分が信じられることを選んで語ることは、自分のコトバで語ることと同じです。
というわけで、このブログでは、僕が信じられる言葉を選び、集めてみようと思っています。
眠くてとりとめもなくなってしまいました。この続きはまたいずれ。
「真に科学的である、というのは「理屈として説明できるから」それが絶対的な真実であると考えることではなく、そこに反証されうる曖昧さが残っていることを認める姿勢です。」(同書)
上のコトバの後に出てくる文で、今日はお開きです。