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なめんな小僧 [落語]

立川志らく独演会〜テーマ:芝居〜@銀座ブロッサム中央会館

演目は師匠にしては珍しい新作落語『吉良の忠臣蔵』と、中入り後に『中村仲蔵』。どちらも芝居「忠臣蔵」に関わる話。

『吉良の忠臣蔵』はタイトル通り、吉良側から見た忠臣蔵。と言うと大げさだけど、世の中みんな偏ってない?って事で、浅野内匠頭の怒りがいかに理不尽だったか、そのお目付役だったはずの大石内蔵助が逆恨みがいかに滑稽なものであったかを描き出す、師匠らしい新作。こういう部分が、僕が師匠を敬愛する理由。それは誰よりも優れているからという理由(だけ)ではなく、自分のメンタリティにピッタリだから。僕も子どもの頃から『忠臣蔵』が好きになれず、その理由が、いくら何でも一方的な美談に踊らされすぎだろう、と思っていたからだ。

師匠も言うとおり、近年は吉良側に立った忠臣蔵解釈も多いようだが、これは、いかにも落語らしい「バカバカしさ」が楽しい。正論で戦うよりも落語らしく《笑い》で勝負する美学も大好きだ。ただ、個人的には浅野内匠頭の描き方が「今時の若者の逆ギレ」という「わかりやすい」笑いに傾いてしまっているように《見えてしまう》ことがちょっともったいない気がした。この咄はもっともっと成長していく気もするので、今後も楽しみにしたい。

変わって中入り後は『中村仲蔵』。古典落語を忠実に、そしてとても丁寧に演じていると言う印象だった。

仲蔵が出世していく「芝居の工夫」。たとえば見得を切る団十郎をのぞき込んでみたり、狐の面を被ってみたり、そうした工夫が金井三笑という立作者との確執を生んだり、と言った場面を丹念に描いていた。

その丹念さが《役者》中村仲蔵の芸に対する情熱を際だたせていく。「斧定九郎」(『忠臣蔵』五段目の登場人物)というを演じたときの工夫が《失敗した》から《死んでしまいたい》とまで言う仲蔵の役者魂と、それを止めるおかみさんの愛を、よりいっそう心に響く形にしているのだ。

今日の日記のタイトルの「なめるな小僧」は、市川團十郎が、自分の見せ場で、仲蔵が勝手な工夫で客の注目を奪ったあと、楽屋で「出過ぎたマネを」と謝る場面で言ったセリフ。「舞台の上じゃ師匠も弟子もない、舞台の上じゃ真剣勝負よ。肩の力ぁ抜いて命がけで戦うんだ」「その程度で驚くオレじゃあねぇ。俺を誰だと思ってるんだ。この團十郎を超えてみろ、オレを喰ってみろ」

伝統芸能だから、様式美を大事にしなければならない、が、新たに何かを作ってかなければ生き延びて生きない、伝統を守っていけない。

この團十郎の「なめるな小僧」と言ったときの志らく師匠には、はっきりと談志師匠が乗り移って見えました。そして先輩にねたまれようが、失敗しようが《良いと思った事はやってみる》という仲蔵の生き様に、志らく師匠の生き様が重なって見えました。だからこそ、(僕の前に座っていた)芝居好きの老夫婦が終演後に「最高っ」って言うほど、人の心に届いたのだと思います。

さらに、志らく師匠の思いがこもったセリフ。團十郎「あたしが残念なのは、仲蔵がどんな役者になるか、最期まで見届けられない事だ。順番だからね」。これは、きっと、志らく師匠から、談志師匠に対するメッセージだと思う。

「立川志らくを、見られるだけ見届けてください」。

志らく師匠の師匠愛に満ちた著書『雨ン中のらくだ』にも、そんな愛情が満ちあふれています。そして、そんな師弟愛がうらやましくて仕方ありません。


雨ン中の、らくだ


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