だから誰かどうぞ上手な嘘をついて [詩・和歌]
どうせみんなひとり、ぼっち 海の底にいるみたい
だから誰かどうぞ上手な嘘をついて
いつも僕がそばにいると、夢のようにささやいて、
それで私たぶん少しだけ眠れる。
『孤独の肖像』(中島みゆき・「singles」)
上手な嘘をつけるようになりたいですね。
虚構のなかの真実。
尊敬する人が「文学的真実」という言葉を使っていましたが、
そういう「上手な嘘」をつける人間になりたい、ですね。
僕自身、そういう「上手な嘘」に、海の底の救われた人間ですから。
嘘 で癒される?
嘘 は罪です。
さて、真実のような「上手な嘘」って、それを戴いてうれしい?
今、きっとお疲れなんじゃないかな。
「文学的真実」?これは、虚構であって、後々もっと空しくなる可能性をもっているんじゃないかな。
結局は、真実に勝ることはないように感じているこの頃ですが。
何だか世の中、おかしいことばかり。政治という変な世界も、いじめという陰湿な行為も、物質的に豊過ぎる現在と、情報が蔓延し過ぎるのも、etc.
自然の中に身を置いて、ゆったりしたいものですね。
by みみず (2006-11-30 16:16)
みみずさん
コメントありがとうございます。
みみずさんにとって、「真実」とは何ですか? 僕は、世の中に「真実」などないと思っています。或いは、いろんな種類の「真実」があると考えています。
僕は、「科学的真実」や「法律的真実」ばかりを重視することが、とても危険だと思っています。「文学的真実」というのは、みみずさんのいう「虚構」ではありません。それは、ひとつの種類の「真実」なのです。
そして、「上手な」嘘には、真実が宿ります。ここでいう「上手な」嘘とは、嘘であることが最後までわからない「嘘」、或いは「嘘」だとわかっていても心地よくいられる状態を作ってくれる「嘘」でよいのです。「少しだけ眠れる」状況を、作ってくれればよいのです。そのつかの間の休息すら、「科学的真実」ではもたらされない人間も、世の中にはいるということです。
そしてそういう人間ほど、嘘を見破ることに長けていきます。ですから、さらに「上手な」嘘が必要になるのです。
by s-taka (2006-12-11 02:33)
12月の句会で、嫌煙権を応援してくれて有り難う。
「勇気ある発言」でした。
喫煙する私が、こんなことを言うのも可笑しいでしょう?
でも、みんな我慢しているんだよね。
これだけ喫煙の害が言われているのだから、喫煙者は非喫煙者に対して
思いやらなければいけません。
「えらい」と感じました。気付かなかった過去をお許し下さい。
そして、他の人も、かなり気づいてくれたことと思いますよ。
さて「嘘」と「真実」ですが、この世に真実がないとしたら、何と哀しいことでしょう。与太さんの言われていることも解らなくはないです。
ただ、経験上、真実のような嘘も、いつかはひっくり返るんです。その時の悲しみの方が、傷みは大きいのです。
今という、瞬間を享楽するのには「上手な嘘」や「嘘とわかる嘘」も楽しいし、「いましばらくの安息」を得られるのです。
私が尊敬してやまなかった亡師は、いっさい嘘がありませんでした。
その瞬間瞬間で、かたづけてしまいました。ただし、詩には、沢山の嘘を、真実らしく(それが、普遍的だからです)表現されました。もちろん、「これは嘘だよ」と、詩の作り方を教えてくださいました。それを文学的真実と呼ぶのは判ります。(表現の上で嘘は当然のことです)。
日常生活の、特に友人関係や恋愛関係においては、お互いを認めあっているわけですから、それ等を含めて「真実」をぶつけ合うこともあるでしょうが、向上していけるのが、理想です。
理想が高すぎるかな。でも、自分が納得いけば心が落ち着くものです。
by みみず (2006-12-12 09:48)
みみずさん
いや、嫌煙権というつもりはなかったのですが……。
むしろ自己反省の意味で言ったのです。
気にしないで、たばこやってくださいね。
みみずさんの言う日常生活の「真実」とは、僕にはむしろ「誠実さ」であるような気がします。誠実であることと、それが真実であるかどうかは、きっと別の問題だと思います。
僕も基本的には僕なりの真実を損なわないように生きていきたいと思っています。でも、それは必ずしも相手にとって「真実」であることにはならない、「誠実」ですらない、ということも多々ありました。
逆に、「真実」だと教え込まれたことの、大半が「ある側面から見た真実」だったことも多いです。
また、とりとめもなくなりましたが、そもそも、自分にとって「真実」とは何か、それすらもわからないのですから、逆に信じられる「真実」がある人はうらやましいです。うらやましいですが、「下手な真実」にはなかなか騙されないようにしたいという気持ちのほうが強いです。
by s-taka (2006-12-12 23:47)
いちばんの真実・・・それは親が子を愛する心。
これほどの真実はありません。
生あるものは必ず死す。という真実。
そして、自然の木々や雑草は時がくれば芽吹き、また枯れ果てる。
自然の摂理に従って「生かされている私たち」
神を信じない私ですら、自然という様々な現象は信じています。
そして、信じる神を持っている人がうらやましいと思っています。
今、尊敬していた人々が1人2人と亡くなり、自分のまわりに尊敬する人がいなくなってしまったことは、ものすごく寂しく、おもかげばかり求めていることにも虚無感を感じています。
どこかへ出かけて探そうとも考えました。でも時間がかかるだろうなー。
それに、そんな容易いことではないでしょうね。
真実は、ある側面から見たものでも良いと思います。
月はいつも、私たちに半面しか見せてくれません。でも、その月の美しさに感動したり、癒されたりしています。
なんだか、ほんと、とりとめもなく「かきこ」してしまいました。
風邪をひかないようにしてください。ノロウイルスとやらにも気を付けて下さい
by みみず (2006-12-19 18:06)
みみずさん
唐突ですが、親は子を殺しても良いと思いますか?
僕は「いけない」という理由を見つけることができません。
少なくとも、世間に文句を言われる筋合いはないんじゃないかと。
逆に、殺す権利がないのに、親に責任をなすりつけるのも問題じゃないかと。だから子供の犯罪に親は責任を負いきれない。
世間に迷惑をかけると思ったら、手にかけることも許させるんじゃないかと。なぜそれを世間に攻められなければならないか。
それは、子供がすでに生まれた瞬間から(最近は生まれる前……堕胎が許されなくなってから)、世間のものだからですよね。
だとしたら、子供の犯罪は、親だけの責任じゃないことになります。
まあ、話がそれましたが、そこまで極論にならなくても、親は子供殴ることは許されると思いますか?
そこに愛があれば許させるといった人がいましたが、親が子供を愛する心が真実だとしたら、どんな理由でも殴って良いことになりますね。
僕は、愛という名の暴力で苦しんだ人間です。親が子供を愛する「真実」に痛めつけられてきたのです。この「真実」は、信じるにはあまりに痛すぎる真実なのです。
理屈ではそれが「愛」だとわかっても、カラダがそれを信じることを許しません。僕はこの年になって、まだ親に殴られる夢を見ます。このまま殺されるんじゃないかという恐怖は、未だに心の底から離れません。
ですから、僕にとって親の真実とは、一方的に押しつけられるモノです。親にとっての真実が、僕にとっては真実ではないのです。
自然の摂理についても、いろいろな側面があると思います。生命は死なずに、あくまで個体が滅ぶだけだという考え方もあります。あるいは、魂は生きているという考え方もあります。
それを、僕は多面性のある真実だと思っています。そして、より「上手な」真実に身を委ねたいだけなのです。
とりとめもなくなりましたが、続きはまた。ちょっと喋りすぎたかもしれません。
by s-taka (2006-12-22 19:46)
>ちょっと喋りすぎたかもしれません。
もっと喋った方が、いいと感じました。
心の中にくすぶっている「真実」とは?何かが見えてきました。
愛を感受できなかった「親」の鞭は、失敗だったのでしょうね。
「アメと鞭」ではないけれど、鞭の後に「しっかりと抱きしめて」もらっていたら、と、思うと、とても残念です。
この、ぶろぐでは、これ以上のことは書き込めませんので、機会があったら、「父殺し」についても、話してみたいですね。
昔読んだ「カラマーゾフの兄弟」を、ちょっぴり思い出しました。
by みみず (2006-12-26 17:01)